ALSを楽しく生きる ホームページ 藤本 栄 http://www.ailife.co.jp/als/als_enjoy.html
トヨタ系大手カーディーラー営業で新人王そしてトヨタ自動車優秀営業スタッフ表彰を9年連続で獲得、94年1月~3月販売コンテスト2位、95年同コンテスト1位獲得後、96年に独立し、ソニー生命保険株式会社と代理店パートナーシップを結ぶ。そして、研修後の2ヶ月で60契約を達成し、周囲を驚愕させる。
その後、ファイナンシャルプランナー、トータルライフコンサルタントの資格を取得する。
そして、98年・99年、MDRT成績資格会員(世界成績優秀者)となる。しかし、時も同じ頃に原因不明の難病(ALS)にて車椅子生活となる。
苦しい闘病生活を8年送り人工呼吸器を着けて社会復帰、2005年福祉事業をたちあげる。
そんな中で、一冊の本に出会う「成功の実現」である。そこで、中村天風の生き方、考え方に感銘を受け、自らもその生き方に共鳴し、自らの病気を通して講義や講演に実践・奮闘中の毎日を過ごしている。
皆様の潜在的幸福感・満足感を引き出し、心の充実感を満たすため、コンサルティングに重きを置き、ファイナンシャルプランニングを展開した経験を生かし、ALSでも出来る事、新たな活動を展開中である。
あなたはなぜ生きているの?生きている目的は?と聞かれてすぐ答えられる方は少ないでしょう。
幸い私は、26歳の時大事故に遭い一命を取り留めたときに、命がいつ消え去るかわからない」と言う現実を目の当たりにしました。それから、いつ死んでも悔いの残らぬように常に目標を置き、常に達成してきた10年でした。
そして、37歳でALSを発病して、幸せの絶頂から地獄とも言える肉体的にも精神的にも辛い日々を経験しながら生死の決断を下す日が来ました。
その時、自分に問いかけました。「こんなに苦しく辛いなら死にたい?」「それとも生きたい?」答えは、自分の心からふつふつと湧き上がるエネルギーが出してくれました。
「生きたい!」「今まで全力で生きてきたから悔いは無い。そして、そんな自分が大好きだ」「もう失う物は無い」
「生きてこそ出来る可能性と自分にしか出来ない事があるはず」「幸せを感じる事だけを見つめていれば100%幸せである。不自由ではあるが不幸ではない」「死んでしまうと可能性はなく無になる」
生きる目的は、可能性の創造と幸福感だ!と確信しました。
そのために目標を持ち、手段を考じれば良いのだ。
体を自分だと思うから苦しむのだ!体も心も自分を表現する道具に過ぎないのだ。
生き抜いてやる!それが、私の下した決断です。
人工呼吸器をつけて2年が過ぎた。私の選択は正しかった。
ウインドウズ支援ソフトオぺレートナビと出会ってからコミュニケーションを取り戻しました。
それから、もう一度社会参加を与えられました、すると今度は、同じように病で苦しむ人々を助けてあげたくなった。本当に苦しかった、辛かった。経験した者しかわからない。
私に出来る方法、経験と志!この2つ!
支援費制度が始まった。天の声が聞こえた気がした。
この制度を使えば、苦しむ人々を救える。
私は今とても充実して素晴らしい日々を過ごしている。
本当に、生きていて良かった!
人工呼吸器を着けて5回目の春が来ようとしている。
生きる目的は、可能性の創造と幸福感だ!と思っていた私に、気づきの春が来た。
人生の目的は、可能性の創造(自己実現)を果たし、自己超越を成し遂げ幸福感を共有しながら真実の愛を悟り行動に移すことだった。マザーテレサの様に!
今の私の生甲斐は、教育の現場で教科書に無い私の生き様から得た「生きる」為の哲学や悟りを語れることである。
私は、最初からこの体になることが天命であった。そして、この体で果たす使命があるのだ!
私は、今、素晴らしい人々に支えられながら第3の人生のスタートラインに立っている。
素晴らしい人生を生きる為に!
平成9年の夏に、それは前触れも無く突然やってきました。
その闘いが今までに経験の無い程の過酷さで大きな渦に家族を
巻き込んでいく事になるとは、その時は予想だにしていませんでした。
それとは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、今の医学をもってしても、発病原因も治療法も無い難病でした。
その病気はまずは私の右足の先からやってきました。
歩行に違和感を感じた私はまず近所の整形外科にかかりましたが何1つ分らないまま湿布薬を出されて、治療をしたとは言えないまま数ヶ月を過ごしました。
その数ヵ月の間にみるみる右足の筋肉は痩せて無くなり、いつも履いているジーンズの右足だけがぶかぶかになり、これはただ事ではないと思い、ある大学病院にかかりました。
すぐに検査をした方がいいという事で筋電図の検査を早くできる病院を紹介されて検査を行い、その結果の封筒を持って妻の父の友人の医師に見てもらいました。
その日のことは一生忘れられない日になるとも知らずに・・・
その時の医師の「車椅子を覚悟して下さい」という言葉は私の心の奥底まで突き刺さり身動きが取れないほど衝撃的な言葉でした。
同行していた妻も同じであった事が後ですぐ分りました。
それは帰り道で行きつけの店でランチを取りながら私はいつもの様にビールとワインを飲んでいました。 はたから見ればよくありがちな夫婦の光景だった事でしょう。 しかし私の心の中は今まで感じた事の無い焦燥感に襲われていたのです。その時、ふと妻の顔を見たときに目が合って、その瞬間に心にあった焦燥感は涙となって一気に溢れ出しました。妻も同じであふれる涙を抑える事が出来なくなりました。
私はその時の気持ちも光景も一生忘れる事はありません。
その焦燥感が絶望という二文字に変わり、二足歩行が車椅子に変わるのにそれほど時間はかかりませんでした。
皆様にはまず告知後の心理を理解していただきたいと思います。この事を理解していただけないと難病患者の心の奥底に宿った絶望感がどれほど根の深いものかを理解していただけないからです。
私は会社を興して意気揚々と毎日を充実して暮らしていました。そこにALSが招かざるのにやって来ましたから、
その対応は毎日失って行く事に明け暮れることになったのです。
失うことは大変辛い事です。失う事には二つの面があります。
一つは肉体的機能を失う事と、もう一つは今まで築いてきた社会的な地位を失う事を指しています。この二つを失い続ける事を受容しなければなりません。
皆様方が今、職業とされている仕事や趣味や嗜好品をたった今辞めさせられたとしたら素直に受け入れる事ができますか?
きっと抵抗なされる事でしょう。でも、私達は否応なく手放さなければならなかったのです。それに加えて、日々毎日肉体的に動かなくなる現実も同時に受け入れなくてはならなかったのです。
皆様、想像できますか?
これは、修行に似ていますが社会的地位を捨てるのに加えて、食べることも飲むことも体の自由をすべて失いますから、とても厳しい修行のように思えます。
ALSは過酷な病気と言われていますが、私にとっては肉体的な喪失よりも精神的な喪失感の方がダメージが大きかったのです。私はそれを乗り切る為に個人セラピストを雇って毎週1回セラピーを受けました。その中で教わった発想の転換は今になって役立っていますし、潜在意識の活用がどれ程大きく人生を変えるかを学びました。
しかし、そのときは心の奥底に絶望感がありましたから、心で聞くより頭で理解しようとしていた気がします。そのセラピーが本当に役立ったのは全て受容してからになりますが、そういう意味では無駄ではなかったといえます。
普通ALSというと運動神経だけが侵されるといわれていますが、一部に感覚神経や自立神経も侵されてしまう人がいます。
私は運悪くその一部に当てはまってしまいました。その為激しい痛みが時折襲って来る為自宅療養ができなくなってしまいました。
その為名大病院に7ヶ月入院することになりましたが、その痛みを抑えるために、ソセゴンという劇薬を毎日打つことになりましたが、ソセゴンは依存性があるために、退院する事ができずにいましたし、痛みもとれる事がなくて、入院も続けるには長くなりすぎた為に自宅へ戻らなければなりませんでした。
その入院期間中に病気の進行は止まることはなく、入院した頃は普通食を食べられていたのが、退院する頃にはやっとで全粥が食べれる程に嚥下機能も落ちていましたし、体は全廃になっていました。
しかも深く座ると呼吸が苦しくなるようになっていました。
私たちは、自治体の福祉制度を知る暇も無く介護に追われていましたから、退院する時に初めて訪問看護があることを知りましたし、ヘルパーさんに入ってもらえる事も知りました。入院する前は家族でシャワーを浴びさせてくれたり、排泄も全て家族でやっていましたから、それが当たり前と思っていましたし、介護に追われて自治体のサービスがあることなど知り得る機会もありませんでした。
退院後、私は痛みに苦しみながら生活していました。そして、とうとう呼吸が出来なくなっていくのでした。
なんと、家族に24時間腹を押さえてもらいながら生きていたのです。
人工呼吸器を着けるという事は皆さんおそらく延命装置を付けることとお思いだと思います。
私もそう思っていましたし、名大病院に7ヶ月入院したときに隣の病室に人工呼吸器を付けた方が入院していて、私はその人工呼吸器の音を聞くたびに恐怖感を覚えていました。
生きているのに身動き一つできずに人工呼吸器に縛られている。つまり生きているのに死んでいると思っていました。
だから自分が人工呼吸器をつけると、同じ様になって家族を縛ってしまうからこのまま死んだ方がいいのか、それとも生きる権利があるのか迷っていました。
いよいよ苦しくて失神までするようになった時は、私はどうしてもこのまま人生を終わる訳にはいかない。私は今まで一生懸命生きたから悔いはない。もう失う物はない。きっと私にしかできない事があるはずだと思って妻に「生きてイイかな・・・?」と質問しました。
答えは「もちろん生きてくれてるだけでいい。」というものでしたので、私の迷いは吹っ切れてすぐに人工呼吸器をつけるために名大病院に向かったのです。
人工呼吸器を付けると呼吸が楽になって、何故もっと早く着けなかったのかと思いました。
主治医にその事を告げると笑っていました。 その時はスピーキングバルブを呼気に合わせて喋ることも出来てとても嬉しかった事を記憶しています。 それから私は失う事をみるのではなくて、これから得られる事に目が行くように変わったのです。
人間とは不思議なもので失いつくしてどん底まで落ちてしまうと、それ以上落ちる事が無いので開き直って強くなれるものなのです。
それから、妻に名古屋福祉用具プラザに電話してもらって、渡辺様(現・日本福祉大学助教授)に来て頂き、パソコンの操作環境を整えて頂いてからはインターネットで自分の世界が広がって、こちらから世間に向かって働きかけできるようになったのです。
つまり、私は自立の第1歩を踏み出せたのです。
さて、いよいよ家に帰れる時が来ました。
名大病院の神経内科病棟の若園婦長さんはとても素晴らしい方で、在宅に向けて訪問看護をはじめケアマネージメントをして下さいました。しかし、家に戻ってからの方が病院より大変な日々が待っていたのです。
それは私が人工呼吸器をつけているがための問題でした。
人工呼吸器をつけていると頻回に吸引が必要ですが、それを出来る者が母と妻だけしかおらず、その結果、母と妻を24時間を家に縛りつけることになったのです。しかも、母は高齢のために無理はできず、妻が介護の90%を背負うことになったのです。痰や唾は昼夜を問わず妻を襲う結果となり、妻は睡眠をとることができなくなってしまいました。それならヘルパーさんにやっていただければいいと思われるかもしれませんが、私の退院した平成14年はまだ家族と訪問看護師にしか吸引は許されておらず1日1回1時間程度の訪問看護時間に休憩をとれと言われても焼け石に水の状況でした。
呼吸器をつけた患者にとって、ヘルパーさんにはやっていただけることがなく、吸引するにはよほどの大家族にて交代でするしか方法はなくて、在宅介護にはとても厳しい現実があると痛感しました。
平成15年の初め頃にとうとう妻は睡眠不足の究極まで来て、一瞬にあちこちで寝てしまい、私は痰がつまってこのまま死んで行くのだなと思う事が何度もあり、失禁することもしばしばありました。
そんな究極な時に支援費制度が始まったのです。
私はこの制度を使えば妻も私と同じように苦しんでいるご家族をも助けることができると思って訪問介護の事業所をつくる決意をしたのです。
そうしたら、7月にはALS患者に限りヘルパーさんによる吸引行為が許可されたのです。
私は自分の体を練習台にすれば、ヘルパーさんに吸引を覚えてもらえると思い、自ら研修材料になることを決意しました。
そのことで、妻も、同じように吸引で困っている方々も、少しずつ助けてあげることが出来る様になりました。
そこには支援費制度が出来たこと、そして名古屋市に24時間介護を可能にしてくれる福祉体制があった事が重要な要素でありました。
今、私の立ち上げた愛ライフは訪問介護に訪問看護を加えて今まで困難と言われていたALS患者 さんや呼吸器を付けた患者さんなどを在宅療養できる環境作りのお手伝いをしています。吸引のできるヘルパーさんも40人を超えて毎月3人ずつ増やしています。入院している方々をどんどん自宅に帰ってもらえたら良いなと思っています。
私に出来る事は経験のフィードバックと志ししかありませんが、是非、皆様や患者さまの力に成りたいと思っています。
みなさん、実は私も、絶対呼吸器を着けたくない派のひとりだったのです。でもそれは、今から思えば社会的な死が1番怖かったのだと思います。ベットに何も出来ずに人工呼吸器に縛り付けられて、毎日天井だけ見つめて肉体の死を待つ。生きてるのに死んでる姿を想像して見て下さい。それは、この上ない恐怖でした。
でも、今の私を見て下さい。会社を経営しながら、講義や講演で全国を飛びまわっている。誰があの絶望の淵にいる時、私の社会復帰を想像出来たでしょうか?
私は、呼吸を失いはじめた時、毎日葛藤の中にいました。まさしく、生きるべきか死ぬべきかの選択であった!生きていれば、家族に多大な迷惑をかける。
どうしたら良いのだろうか?
その時、正直に自分に問いかけました。「こんなに苦しく辛いなら死にたい?」「それとも生きたい?」答えは、自分の心からふつふつと湧き上がるエネルギーが出してくれました。「生きたい!」「今まで全力で生きてきたから悔いは無い。そして、そんな自分が大好きだ」「もう失う物は無い」
生きてこそ出来る可能性と自分にしか出来ない事があるはず」「幸せを感じる事だけを見つめていれば100%幸せである。不自由ではあるが不幸ではない」「死んでしまうと可能性はなく無になる」生きる目的は、可能性の創造と幸福感だ!と確信しました。そのために目標を持ち、手段を考じれば良いのだ。
体を自分だと思うから苦しむのだ!体も心も自分を表現する道具に過ぎないのだ。生き抜いてやる!それが、私の下した決断です。
「経験から得たスピリチュアルな真実」
なぜ人は生まれて来るのか?
それは、人間は肉体の生き物ではなく魂が肉体という衣を纏って魂の宿題や課題をこの世に果たしに来るのです。
なぜ苦しいことが多いの?
肉体を持つことは、そのこと自体が辛いこと苦しいことが多くなります。そして、この世は物質文明ですから、つい心も形があるものに価値があると思って苦しむことになるのです。例えば、形があるものとは、富や名誉を指します。本当に価値があるものは何か良く考えてみてください。魂が打ち震えるほどの喜びを与えてくれたものは何だったか?形があるものは、肉体の死とともにこの世に置いていかなければなりません。しかし、この世や天に積んだ徳は魂の財産となりなくなることはありません。
ここからが本題です
ALSになった患者のみなさん本当に不幸ですか?
確かに今まで築いてきたもの、それから、肉体の自由も奪われるでしょう。でも、失う影に得ることがあることに気がついてください。奥さんやご主人さん、ご家族ややご親戚、お医者さんや看護師さん、OT,PT、ヘルパーさん、そして、ここにお見えになる協会を初めとするボランティアのみなさんからたくさんの愛を頂いているでしょう。
この世は、十円玉に表と裏があるように、日向と日陰が同時に存在するように、表裏一体の法則があるのが自然の摂理なのです。失うものはこの世の物質的なもの、そして、得るものは人類が誕生してからこれからも変わることが無い愛なのです。愛とは、見返りを求めません。損得勘定は、邪悪な心ですからお間違えの無いように!
そして、良く神様は、その人が乗り越えられない障害は与えられないといわれていますが、その根拠は、生まれて来るときに自分の運命を自分で決めてくるからです。自分で決めたことですから乗り越えられないはずが無いのです。
最後に、人間が成長するのは魂が成長することを意味します。では、どういう時人間は成長するのでしょう?答えは簡単です。苦しさを乗り越えたときです。それには、ALSは、格好の素材なのです。折角ALSになることが出来ました。今こそ魂の向上の大チャンスです。肉体は、遅かれ早かれいつしか消えてなくなります。しかし、魂というエネルギー体は永久不滅です。是非、ALSを乗り越えて下さい。願えば必ず叶うこれも自然の摂理なのです。ALSになれたことに喜び感謝出来る日が必ず来ます。その時、一回り成長した自分に出逢えます。
体を自分だと思うから苦しむのだ!体も心も自分を表現する道具に過ぎないのだ。生き抜いてやる!是非、皆様も生きることを諦めずに今しか出来ないこと、今、楽しめることに目を向けて、失う影に隠れた最高に価値あるものに気がついて頂ければこの上なく幸せです。
本日は、こんなに素晴らしい総会にお招きいただき宮城県支部の皆様に感謝いたしますとともに、私が人工呼吸器を着けた5年前、良き相談相手になって頂いた鎌田さんの故郷で少しでもお役に立てれば幸いと思います。
ご清聴ありがとうございました。